「市民全員にAIバディを配る」

香港から考える、日本のAI法制の行方

INNO EX Hong Kong レポート

香港展示会に現れた「市民パートナーAI」

2年ぶりの香港。酷暑の季節になる前、気持ちのいい時期に来ることができました。ものづくりのアドバイザーの仕事でHong Kong Electronics Show2025に来ました。

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このショーは家電やガジェットの界隈では有名で、中国本土のOEMメーカーがあらゆる家電やガジェットを持ってきて、世界中から集まるバイヤーに売り込みます。日本でも見かける有名ブランドではないイヤホンとか美容家電なんかは「うちのオリジナルブランドのこういうロゴつけてくれ」とか交渉して店頭に並んでいるんですね。

これはこれでとても面白いのですが、今日はAIのお話です。

INNOEX というテクノロジー展示会も同時開催されていて、ここは香港だけでなく主に中国各地の地方政府が競うように大きなブースを出していました。写真下は深圳のブース。

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HUAWEIのような大手も出展していて日本でいうCEATECのような雰囲気ですね。

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ここの香港政府の紫のパネルに、目を引く文字があったものの、ちょっと一瞬では理解が追いつかず

HKGAI V1 : AI Buddy for Hong Kong Citizens

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Serving 6.5 Million Overseas Chinese

One Country, Two Systems – AI Empowered

「市民全員にAIバディを配ります」

最初は何かの比喩かと思ったんです。でも違いました。現実です。

香港政府は本当に、750万人の香港在住の市民一人ひとりにAIアシスタントを「配布」しようとしているんです。

HKGAI V1(Hong Kong Government AI Version 1)

Deepseek 671BをベースにローカライズされたこのAIは、来年から香港市民なら誰でも無料で使えるようになるそうです。税務相談、医療相談、子育てサポート、進路指導……生活のあらゆる場面で、政府公認のAIバディが24時間365日寄り添ってくれる

しかも対象は香港在住者だけじゃない。

全世界にいる6500万人の華人と呼ばれる中国系の人たちも含まれる。世界のどこにいても、横浜で暮らしていても、中国系の華人である限り、このAIバディが一緒にいてくれる。

そして、すべての会話ログは政府のクラウドで最大5年間保管される(公開資料によれば最長5年)——。

日本でAI法制について考えていた私にとって、これは単なる技術革新の話ではありませんでした。「AIと市民の関係」「政府の役割」「データの管理」といった根本的な問いを突きつけられた気がしたんです。

「One Country, Two Systems ― AI Empowered」

パネルに書かれたこのキャッチコピーを見て、ある種の既視感を覚えました。かつてスマートフォンが「一人一台」の時代を迎えたように、今度はAIが「一人一体」の時代に入ろうとしている。ただし、今回配るのは政府で、しかもすべての使用履歴が記録される。

これは日本のAI法制を考える上で、極めて重要な先行事例になりそうです。なぜなら、日本でも遅かれ早かれ「市民向け大規模AI」の問題に直面するからです。そのとき、香港のような「配布型」を選ぶのか、それとも別の道を探るのか。

まずは、この香港モデルがどのような設計思想で作られているのか、詳しく見ていきましょう。

日本のAI法制を考える上での比較軸——香港・EU・日本の現在

白いのは、この香港のアプローチが、EUや日本とはまったく違う方向を向いていることです。せっかくなので、三つの地域の特徴を整理してみました

EU:プライバシー重視の「事前規制型

EUのAI規制を理解するには、まずその「DNA」を知る必要があります。

2018年に施行されたGDPR(一般データ保護規則)が象徴的ですね。「このサイトはCookieを使用しています」という、あのうっとうしい……いや、丁寧な確認画面を世界中に広めた規則です。違反すると最大で年間売上高の4%という巨額の制裁金。

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なぜEUはこんなに厳しいのか。それは、ナチスや東ドイツの秘密警察による監視社会の記憶が、今も欧州の人々の中に生きているからだと言われています。「個人情報は簡単に武器になる」という歴史の教訓が、EUの規制哲学の根底にあるんです。ドイツでGoogle Mapを使用するとストリートビューが使えないところが多くて不便、一方でこの建物にはどんな人が住んでいる?という情報漏洩が危機につながる歴史の教訓から、現代の市民が守られているわけですね。

そんなEUが作ったAI Act(AI規則)は、まさにGDPRのAI版といえます。AIのリスクを4段階(最小・限定・高・禁止)に分類し、高リスクAIには事前審査を義務付け。違反時の罰金は年商の7%に達する可能性があります。

たとえば、採用や融資判断に使うAIは「高リスク」に分類され、以下が要求されます:

  • アルゴリズムの透明性確保
  • データの匿名化処理
  • 第三者機関による監査
  • 定期的な透明性レポートの提出

企業からすれば正直「めんどくさい」。でも市民からすれば「守られている」。これがEU流なんですね


日本:自主性重視の「事後対応型」

日本のAI法案(AI事業者ガイドライン法案)は、2024年から本格的な議論が始まり、現在まさに進行中です。

つい先月も、国会の参考人質疑に専門家が呼ばれて話題になりましたよね。東大の松尾豊教授が「規制でイノベーションを潰してはいけない」と力説する一方、「最低限の安全基準は必要」という声もあり。いつもの光景といえばいつもの光景ですが、今回はちょっと様子が違います。

なぜなら、ChatGPTの登場以降、AIが急速に「みんなのもの」になってしまったから。企業向けの話だと思っていたAI規制が、突然「自分たちの生活に関わる話」になった。インターネットとか、スマホとか、いやそれよりもっと根本的に世の中変わるって話なの??政府も慌てているのが正直なところでしょうね。

現在の法案は4章28条というコンパクトな構成。基本的な考え方はこうです:

  • 企業の自己適合制(自分たちでルールを作って守ってね)
  • 事後規制中心(問題が起きたら対応します)
  • 行政指導ベース(強制力は……まあ、その時々で対応考えますよ)

順調にいけば2025年中に成立、2026年から施行という流れですが、正直どうなるかわかりません。なにしろ市民向け大規模AIのログ管理基準すら「詳細は今後検討」という状態。データ保管も企業の判断に委ねられています。

「ちょっとわかんないことは先送りで…」という日本らしいアプローチといえばそれまでですが、香港のような「AIバディ全員配布」みたいなスピード感とは大きな差がありますね。

香港:実装と管理の「完璧な融合」

そして香港。これが実に「スマート」なんです。(誰にとってスマートなのかという議論はここでは置いておきます)。

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普通、新しいサービスを始めるときって、こんな流れですよね:

  1. まず試験的に始めてみる
  2. 問題が出てきたら対応を考える
  3. 必要に応じてルールを作る

でも香港は違います。AIバディを配り始めるその日に、すべての会話記録を5年間保管するルールも一緒にスタートさせています。つまり「後から考える」という曖昧な部分を、最初から排除できるくらい完成度の高いものになっています。

普通なら「まずは試してみて、問題があったら規則を作ろう」となるところを、香港は最初から「全部記録して5年間保管します」と決めていますし、しかも、サービス開始と同時に、この保管ルールも法的に有効になるという、非常に練り上げられた完成度の高い設計になっているわけです。

しかも対象は香港にいる人だけじゃない。海外にいる中華系の人々も含めて6500万人。つまり、カナダに移住しようが、イギリスに留学しようが、香港市民・中華系である限り、このAIバディのサービスを利用できる。そして政府は、あなたが何をしようとして、何に困っていて、どんな相談をしているか、すべて把握できているので、痒いところに手が届くサービスが受けられる。

「市民は最先端のAIサービスを無料で使えて、政府は市民のニーズをリアルタイムで把握できる」

確かに効率的ですね…

技術的な仕組みも見ておきましょう。展示パネルに示されていた構成図(写真下)は、なかなか興味深いものでした。

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最下層の「AI Super-computing Platform」は、政府が巨額投資した超高性能コンピューター群。その上にDeepseek 671Bを香港版に作り替えた基盤モデル。さらにアプリケーション開発層を挟んで、最上部にはビジネス向け・個人向けのアプリが並んでいます。

これを見ると、単なるチャットボットの配布ではなく、AIを軸にした包括的な行政システムの構築だということがわかります。

展示パネルに示されていた活用例:

- 税務相談の24時間対応(過去の相談履歴も参照可能)

- 医療の初期診断サポート(症状の経過を継続的に記録)

- 子育て相談から進路指導まで(成長過程のデータを活用)

市民にとっては、一人ひとりに合わせた行政サービスを受けられるということ。しかも無料で提供される。すべての相談内容が記録され保管されていますから、政府は市民一人ひとりの「人生の軌跡」を把握できます。役所の窓口に行って、番号札を取って長い列に並んで、過去の経緯を「昔々あるところに…」と初めから説明する必要もないわけです。子どもの成長、健康状態、経済状況、人間関係の悩み……すべてがデータとして蓄積されていますので、話しかけた時点で、「ああ犬猿キジの猿についてお困りのAndyさんですね」とすぐにわかるというわけ。

香港モデルは、技術的には確かに「スマート」です。でも、それは同時に、これまでの歴史上類を見ないレベルの「親密な統治」を可能にするシステムでもあるんです。

比較してみると見えてくる、それぞれの「価値観」

三つのアプローチを「統治重視」「実装速度」「市民参加」の軸で整理してみました。

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こうして見ると、香港は「統治」と「スピード」を両立させているのが特徴です。これは一つの政策モデルとして、技術的には興味深い事例といえるでしょう。

で、日本はどうすればいいの?

正直、日本の「面倒なこと先送り方式」も悪くないと思うんです。ただ、香港の事例を見ると、いくつか考えさせられる点があります。

香港の特徴:

- 最初から統合的な設計(インフラとルールの同時構築)

- 市民への提供条件が明確(無料で高性能AI)

- データ活用方針の明示(5年保管と用途を最初から公表)

これらは確かに「透明性」という意味では参考になります。ただし、その透明性が何を意味するのか、誰のための透明性なのかは、別の議論が必要でしょう。

もちろん、日本がそのまま真似する必要はありません。でも、せめて私たちが日々使用するAIのログ管理基準くらいは、きちんと決めておいたほうがいいんじゃないでしょうか。我々の膨大なデータはOpenAIやらAnthropicやらAI企業の海外のサーバーにあるわけで。

たとえば、利用者が100万人を超えたサービスには、年次レポートの提出を求めるとか。香港みたいに政府が直接管理するのではなく、第三者機関に監査させるとか。日本らしい「ゆるやかな管理」の形はあるはずです。

市民の声から見える「便利さ」の裏側

展示会場で出会った香港パビリオンの方は、このシステムについてこう話していました。

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「来年からAIバディが使えるようになったら、もう政府のホットラインに電話する必要もなくなる。子どもの予防接種の時期も、税金の申告も、全部AIが教えてくれる。履歴も残るから、去年の相談内容も参照できる」

利便性の高さは確かです。24時間対応、待ち時間なし、言語の壁もない(広東語、北京語、英語に対応)。

「それに」とその方は続けました。「政府も市民が何を求めているか、データで把握できるようになる。まさにスマートガバメントの実現だ」

なるほど、市民と政府の距離が、AIを介して変化するわけです。これは行政効率化の一つのモデルとして、確かに注目に値します。ただ、このモデルを日本の市民が求めるのか?は、国ごとの文化や国民性によるものがあるでしょうね。

日本が選ぶべき「第三の道」とは

さて、香港とEUの事例を見てきましたが、日本のAI法案を考える上で何が参考になるでしょうか。

香港のような「統合的な設計」は確かに効率的です。最初から全体像を描いて、インフラとルールを同時に作る。日本の「先送りしておいて後で考える」スタイルとは対照的ですね。

でも、その「効率性」の代償は何なのか。5年間の会話ログ保管が「市民サービスの向上」のためだけなのか。海外にいる市民まで含めるシステムの本当の目的は何なのか。そんなことも考えながら、日本独自の道を探る必要があるでしょう。

EUの慎重なアプローチも、プライバシー重視という点では参考になります。ただ、あそこまでガチガチにすると、イノベーションが停滞するリスクもある。

結局、日本は日本らしい「第三の道」を見つける途上にあるんだと思います。それは香港のような「スマートな統治」でもなく、EUのような「厳格な規制」でもない、もっと別の何か。

「遅い」とか「なあなあ」と批判されがちな日本方式も、その遅さ、ゆるさが生む余白こそが、自由と安全のバランスを取る新しいモデルになるかもしれません。

かつては固定電話も犯罪の温床になり、新しい問題をたくさん生みました。我々は携帯電話も、インターネットも、スマホもSNSも上手に付き合ってきてるわけですから、きっと最適解、着地点が見つかるはず。

私は技術に対して常に楽観的な見通しを持つべきと考えています。日本のAI法制の議論が、おかしな規制に走らず、本質的な問いを忘れずに進むことを願っています。

次回は、もう一つの興味深いトピック「Low-Altitude Economy(低高度経済圏)」について。都市の上空100メートルをめぐる規制と可能性について、これも日本の都市計画を考える上で参考になる海外事例をご紹介します。